哲学についての格言

tetugaku:tetugaku:tetugaku:tetugaku:tetugaku:tetugaku:tetugaku:tetugaku:



僕たちは、決して自然界の支配から逃れることはできず、何かを支配している
かのように見える人たちも、それが自然界に支配された行動である。


宗教は、自分の心に安心感を与えてくれるブランド物の洋服になっては
いけないが、優越感を幸福の肥やしとする人間には同じようなものだ。


宗教がもたらしてくれる幸福感‥‥それは、ある種の優越感である。
優越感は個人的救済であるが、宇宙的につながった存在の
部分としての個人を、真に救うことはできない。




tetugaku:tetugaku:tetugaku:tetugaku:tetugaku:tetugaku:tetugaku:tetugaku:
以下は(「アラスカの風に乗せて」より)



無というのは何もない状態ではなく、方向性だけがある状態である。
可能性と言い換えたらわかり易いかもしれない。
宇宙には最初何もなかった。ただ、可能性だけがあった。
何かが起こるかもしれないし、何も起こらないかもしれない状態、
そんな方向性だけがある状態、を無と呼ぶのです。




tetugaku:tetugaku:tetugaku:tetugaku:tetugaku:tetugaku:tetugaku:tetugaku:
以下は(「自分探しの旅withマーキー」より)



まず初めに、あなたに覚えておいていただきたい言葉があります。
それは、「言葉は偏見を記述したものに過ぎない」という言葉です。


はるか過去に遠い異国で起こっていた戦争と、今のあなたとは決して
無関係ではないということも言えるわけです。


結局、理性は、その欲望を理由付け(合理化)する道具に使って
いるだけなのかもしれません。大人も子供も‥‥。
そう、子供だけでなく、大人だって‥‥。
と言うか、大人の方がずっと巧妙にやっているわけです。


まず第一に、アルツハイマーを病気だと決めているのは、人間の都合です。
そうでない状態を正常な状態と考えているわけですが、本当は、
どちらも自然界から見たら正常な状態なのです。


あなたがその人を間違いなくその人だと証明しても、それは
他人の証明をしているだけ。自分を証明できるのは自分だけです。


他人がどんなに証明してくれたって、「自分」であると信じるものがなくなっ
てしまったんなら、そしてその必要もなくなってしまったんなら、それは
自分ではないということです。



自分を証明している脳は、ある条件の下で自分と信じているものを
自分と思い込んでいるだけなのです。


脳は個人の持ち物ではなく、この宇宙のあらゆるものがそうであるように、
それを取り巻く環境によって作られている柔軟なものなのです。


僕たちは、確固とした自分があるという幻想の中で生きています。


僕たちは、ひたすら不確かな脳に支配されていたわけですから、
自我もアイデンティティーも、願望が見させる幻想に過ぎなかったわけです。


ヒットラーさんに独裁的行動を取らせていた脳は、彼を取り巻く環境によって
作られていたものだと考えると、責められるべき人はヒットラーさんだけでは
ないという発見も引き出してくれます。


人間は、お互いの言葉を自分の都合のいいように理解し合い
ながら会話をしている。


現実とは、脳が過去の記憶に基づいて見ている幻覚のことです。
幻覚こそが、僕たちが現実と呼んでいたものだったんです。


自我がなければ人間は不安で生きていけません。そのため確固とした自分
がいると思いたいのです。脳はそのようにつじつま合わせをします。


しかし、自我がなければ不安だった時代は終わりつつあります。
今では、その自我が、むしろ様々な混乱不安を引き出しています。


ダウン症を、染色体の異常ととる捉え方もありますが、異常ととるのは人間の
想像力であって、本当は自然界には異常も正常もありません


ダウン症は決して脳に障害を負っているのではありません。
その状態が、彼の脳が自然界に適応した現われ方なんです。


僕たちが普通「障害者」と呼んでいる人たちは、自然界においては障害者なん
かじゃなく、自然界に適応して現れている姿です。
自然界から見て、もし僕たちに唯一障害というものがあるとすれば、それは、
理性」です。


僕たちは「みんな障害者」であると自覚したところから、新しい世界
が始まります。


この宇宙には適応されない状態で存在しているものは何一つない。


僕がある病気で死んだとしたら、それが自然界に適応した現象なのです。
生だけが自然界の現象ではありません。死だって立派な自然界の現象です。


他者と区別する境界線を持った物体の、その境界線は、一時的なものでしかない。
全ての形は、その素材(素粒子)の変化している一過程である。


自分が自分であることを主張しないものに対して、「あなたは自分自身です」
などと言うのは、お節介と言われるものです。(


記憶」こそ自分を作っているものであり、世界を作っているものである。


ケーキが食べたいからケーキ屋に行って、お金を払ってケーキを手に入れる。
だけど、これは自然界の法則が作り出す様々な刺激に、僕たちが
反応させられている姿に過ぎないのです。


この宇宙は、素粒子が全てを演じている劇場だったんです。
観測者である人間も、観測という行為もその一部だったわけです。
現代科学が到達したのはそのことでした。




tetugaku:tetugaku:tetugaku:tetugaku:tetugaku:tetugaku:tetugaku:tetugaku:
以下は(「レフュージ」より)



真理とは人間の意識外の全てのことだ。
人間が想像したり理解しようとしたりする意識の外で存在する
自然の流れのことだ。真理は究明して得られるものではなく、そこに存在(ある)ものだ。


成長という言葉も進化という言葉も、人間が自分に都合よく考え出した言葉
にすぎない。あるのは成長でも進化でもなく変化だけだ。


もしかしたら、僕はワタルではなかったのかもしれない。僕にそんな名前がついていたなんて、
うまく理解できない。人が僕を便宜上そう呼ぶから、ただそんな気がしていただけだったのかもしれない。
 じゃあ一体僕は何だったんだろう!?


今となって思うんだけど、どうして大人は自分たちが誰一人として実行できないことを
子供たちに押し付けたんだろう。それどころか、この社会の成功者と言われる人たちは、
その教えを実行できなかった劣等生ばかりじゃないか。