芸術についての格言

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アート(art)を「芸術」と訳すべきではない。
アートとは日常からトリップする感覚に訴えて表現した
装飾」の総称である。



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以下は(「アラスカの風に乗せて」より)




芸術は、「装飾」とは根本的に違う性質のものです。一言で言えば、
「人間が、人間として生きるために抑圧されているものを、
形を変えて解放する行為」です。



芸術は、抑制し切れなかった本能を鎮静させるために使われるべきです。
もし、それにより、かえって暴力的な気持ちを煽ったり、
眠っていた欲望が目覚めるようでは、
芸術がいい使われ方をしているとは言えません。



他人に見せたり聴かせたりするために創り出されたものは、装飾であって
芸術ではありません。



・本能を研究することで、芸術やスポーツとは何かということがわかってきます。



芸術における「効果」とは、他人に美しく聴かせるためとか、美しく見せるためではなく、
自分を納得させるため(自己の癒しのため)の効果です。
装飾における技術は他人に美しく聴かせるためとか、美しく見せるために研鑚される
ものですが、芸術における技術は唯一「自分を納得させる」その目的だけのために、
研鑽されるものでなければなりません。



言葉を知らない赤ん坊が誰にも教えられずに泣くように、芸術も
誰にも教えられずとも、それが生きる上で必要だからする行為です。



芸術において、何ものからも自由になれなければ、芸術家的人間(本能が社
会的に抑圧されることによって、精神的な障害に陥ってしまう傾向が強い人。そ
の治療として芸術という行為が必要な人)はどこで自由になれるのでしょう。



・芸術家的人間というのは、トラウマに支配されていて、とても危険で、
やっかいな代物なのです。だから彼らには、楽器や絵の具や粘土
といった危険性のない具体的な道具を与えておいて、目をそちらに
向けさせておく必要があるのです。



現在、芸術と呼ばれているものは、本来の芸術を装飾化したものです。
(以下に、僕の考える芸術と装飾の違いを列記します)

装飾は才能だが芸術は本能である。

装飾は創造だが、芸術は破壊である。芸術が何かを創造するかに
見えても、それは破壊行為によって産み落とされた副産物に過ぎない。

芸術は何も創造はしない。ただ自らを呪縛から解き放つだけ。
創造するのではなくその行為の時に何かが産み落とされるだけだ。

装飾は呪縛からの解放ではない。呪縛との和合である。

装飾は感覚の諸機能に快い刺激を与える。その目的のために
作り出されたもの、それが作品である。

芸術は、感覚の刺激という面から考えると、むしろ繰り返される刺激に
耐えられない魂を、解放すること。

装飾品には価値を与えることができるが、芸術作品(芸術行為
よって産み落とされた副産物)それ自体には価値はない。芸術作品に
価値を与えるのは作者への愛だけである。

↑よって装飾はお金に換算することができるが、芸術はお金に換算する
ことはできない。芸術行為によって産み落とされた副産物に多額
の値がつけられたとしたら、それは、後の人々から与えられた
装飾的(脚色された)部分に値がつけられているに過ぎない。

芸術は表現でも伝達でも効果でも他人を感動させることを目的として
もいない。マス・メディアの発展に伴ってそのような誤解が生まれ
てしまった。芸術は表現とか伝達とか効果とか、そういった段階を
はるかに超えた「叫び」である。しかし、その深層にはわかって欲
しいという気持ち(伝達や効果)を込めた叫びである。

芸術は一見、好奇心や所有欲を満たすもののようにも見えるが、
その背後にはむしろ捨て去る欲、死への欲求が隠れている。

芸術は個人的な癒しで、本来は他人の理解を拒絶している。
装飾はいわば他人の癒しで、その意味で他人の理解を前提としている。
そのため、装飾は共通の言語を必要とし、多くの才能の合作によって作られる。



芸術は、精神的余裕と閑暇のある人たちのためにあるのではなく、
僕たちにこそ必要なものだからです。



芸術行為によって産み落とされたあらゆる絵画も「装飾」ですが、
それを鑑賞する行為は「芸術」行為です。つまり、
装飾はこのように、芸術の行為と行為を結びつける働きもしています。
そして、芸術とは、作品ではなく、まさに行為そのものを指す名称だったのです。



でも、ちょっと待ってください。そもそもゴミを出す理由は、町の美観のため
じゃなかったんです。何かが忘れ去られていませんか? 
これでは、病気が癒されるどころか、ますます病気になってしまいます。




気が小さくて臆病な彼女は、それまでいつも心が萎縮していたようでした。
絵を描く時が、心が解放される唯一の時だったのでしょう。




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以下は(「フルーレ」より)




僕は悔しくて泣きたくなりました。
 僕が描きたいのは地面や人や花なんかじゃない。
ましてや余白を埋めるための痩せぎすの椅子なんかでもない。
屋根の上に寝転んだ時に見える、青い青い空が描きたかったのです。



子供のころに見た青い空、透き通った空、静かで永遠を感じさせる空、
平和で争いのない空、そんなものが
苦しいほど心の中をいつも支配していました。



「その人が、この絵をぼくにわたすとき、ちょっとかなしそうなかおをしたんだ」



その時痛みが少しやわらいで、泣き止んだのを思い出します。
その子だけが僕の痛みを真っすぐに受け取ってくれる心
を持っていたからだと思います。



たとえ作者がどんなことを企んでいたにしろ、それはその絵の
外観を装うためのアイデアにすぎません。
芸術の本質は、抑え付けられた人間の内部のエネルギーが
ある日大噴火して、その結果として山を作るようなものです。



芸術は、そこいらから土を寄せ集めてきて、みんなの力
見栄えのいい山を一つ作り上げることなんかじゃありません。



頭でひねったアイデアや高邁な思想は、芸術の本質ではありません。



僕は部屋を飾るためや、他人の暇つぶしや娯楽のために絵を描いてい
るのではありません。時には情熱や感動で気が狂いそうになったり、時には
悲しみに押し潰されそうになったり、時にはガン細胞のようにあちらこちら
に巣くい、恐怖や怒りで苦しめたりする危険で扱いづらいエネルギーが僕の
中にあるのです。それを外に吐き出さなければ、偏って澱んでしまったエネルギー
はやがて僕自身を破壊したり、社会に迷惑をかけたりしてしまうからです。



芸術は決して選ばれた人たちのためのものでも、他人から
与えられるものでもなかったということを知ってください。



その人への愛だけが、その一枚のジャケットの本当の価値を知っているのです。



画家として認められたいと焦っていたあのころは、絵という抜け殻
見栄えよく作るために一生懸命だったのです。今は人に見てもらうために
絵を描いているのではありません。





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以下は(「詩人になる方法」より)




ああ、そのことに気づいた彼の詩は今、文学を越えてしまった。
 ただ孤立して存在する「怒り」となった。



詩人とは、決して人に認められる詩をコンスタントに書き続ける人のことではなく、
心の中にいつまでも消えない灯りを持ち続けて生きている人のこと。



詩人とは安定して走れない傾いた船に乗せられて生まれてきた人間である。



詩人は詩が書きたいから書くのではない!
 書かなくては生きていけない病を抱えて、生まれてきた人たちのことだ。



常識や論理的思考をするための枠が取り外されて、脳内に記憶されている遠くの言葉同士の
交信が始まる。詩に生き生きとしたリアリティーが生まれるのは、その時だ。